コミケを風疹から守り隊

2011年12月25日日曜日

「早川由紀夫氏訓告問題」について

初回公開日:2011年12月25日
最終更新日:2012年03月10日



(2012/12/26追記:「6.余談その2」について、黒猫亭さん本人からTwitter経由で御意見を頂いておりますので、今後内容を変更する可能性があります。現在の記述は暫定的なものとしてお読みください。)
(2011/12/29追記:「6.余談その2」に関しては、内容の削除や書き換えは行わず、もとの文章を残したままで追記及びコメントによって補足する事にしました。括弧でくくり「追:」を冒頭に付けた部分が、今回追記したものです。また追記で書ききれない内容をコメント欄に書いてあります)
(2012/03/10追記:「わたしたちは子供を産めますか」というTogetter経由でこちらに来られた方は、是非こちらの記事もお読みください)


1.はじめに

既に報道等で御存知の方も多いとは思いますが、2011年12月7日、早川由紀夫氏(群馬大学教育学部教授)がTwitter上での発言を問題視され、学長より訓告を受けました(本人によるまとめはこちら)。この件に関しては幾つかの論点があります。また私は震災以前の早川氏の言動も多少知っており、直接遣り取りした経験もありますので、そうした点も踏まえて、以下に述べていきたいと思います。
また、これは大切な事なので初めに書いておきますが、早川氏は衆目を集めたくてわざと暴言を吐いている節があります。ですから彼の発言をマトモに相手して軽挙妄動に走るのは控えてください。少なくとも、感情的になるのは、相手の思うツボです。
この記事を最後までお読みになれば「早川氏はマトモに相手するに値しない」という事を御理解頂けるかもしれません。

2.早川発言の問題点


報道では「殺す」「オウムと同じ」という様なセンセーショナルな部分がクローズアップされがちです。しかし、彼の発言の問題点はそれに留まりません。これはある意味、震災前から一貫しているとも言えます。
まず項目を挙げます。


1)表現が過激で乱暴である。
2)嘘吐き、もしくは無責任。
3)差別的である。
4)明らかに知識不足であり、にも関わらず(だからこそ?)俗流・独自解釈に固執する。
5)詭弁を多用する。
6)ワガママで自分勝手。
7)上記5)6)からの帰結として、しばしばダブルスタンダードに陥る。


以下、個別に解説していきます。

2011年11月17日木曜日

お知らせ

気が付いたら2ヶ月以上も更新が無いままでした。
なかなかまとまった文章が書けませんが、ぼつぼつ書き溜めてはおりますので、何とか少しずつでも公開していきたいと思っています。
殆ど内容がありませんが、単なるお知らせでした。

2011年8月30日火曜日

P02-04: ニセ科学批判の対象と射程~震災後のニセ科学批判の困難さ~

初回公開日:2011年8月30日
最終更新日:2011年8月30日



(このエントリは、ニセ科学批判について、ある程度の知識のある方を対象にしています。初めての方には少し解り難いかもしれません)
(ニセ科学批判とは字義通り「ニセ科学を批判する行為」の事です。それ以上の意味は込めていません)


1.これまでに(震災前までに)ニセ科学批判が主な対象としてきた人達


これまでのニセ科学批判が主に対象にしてきた(射程に入れてきた)人達は誰なのでしょうか。


最大のターゲットの1つは、言うまでも無く「自らがニセ科学の発信源となっている人」です。これは明確な批判対象です。しかしながら、自ら積極的にニセ科学を広めている人(例えば由井寅子さんとか江本勝さんとか)は、少々批判されたくらいでは容易に止めたりはしないと考えられます。また、こうしたニセ科学的な事を言い出す人は雨後の筍の様に出てくるので、いくらやっても「モグラ叩き状
態」になってしまいます(勿論、だからといって批判を止める訳にもいかないのですが)。


そこで、第2の対象として「ニセ科学に興味の無い人・なんとなく聞いた事はあるけれども詳しくは知らない人」をターゲットにしてきました。ターゲットと言うと聞こえが悪いですが、この場合は、批判よりもむしろ啓蒙が目的となります。つまりニセ科学について知って貰う」事により、ニセ科学にハマり難くするのを目指しています。言わば予防ですね。


なお、知識の欠如が問題とする見解に対して、これを所謂「欠如モデル」と看做して批判する事がある様です。しかし平川秀幸さんによれば批判対象となるのは原因が知識欠如「のみ」だと考える場合だそうです(ちょっと長い議論になりますが、興味のある方はこちらのTogetterも御参照ください)。
だとすると、私の知る限りでは「知識の欠如のみが問題である(=知識さえ与えれば問題は解決する)」などという見解を持っている人に会った事がありませんので、さしあたり平川さんの言っている事は気にしない事にします。


2.これまでに(震災前までに)ニセ科学批判があまり対象としてこなかった人達


一方で、あまりターゲットにしてこなかった人達もいます。最も典型的なのは「ディープなビリーバー」です。菊池誠さんなどが良く仰るのは「ビリーバーは説得できない」という言葉です。これは文字通りに「できない」というより、むしろ「説得には個別に対応する必要があるし多大なコストがかかるうえに、たとえそうやっても出来るとは限らない」という意味に解釈すべきでしょう。ニセ科学批判は基本的にボランティアで行われていますしリソースも限られていますから、ビリーバーの説得に費やすコストを捻出するのはなかなか困難です。
つまり、ビリーバーを見捨てているのでも相手にしていない訳でもないのです。実質的にそれが出来ないでいるのはマンパワーと方法論の問題だと理解しています。

2011年8月7日日曜日

素人談義:増税亡国論

初回公開日:2011年08月07日
最終更新日:2017年05月24日

1.はじめに

タイトルに書きました様に、私は経済についても、政治に関しても素人です。しかしながら、最近の情勢を見ると、あまりにも増税を実行しようとする勢力が強過ぎると感じます。そこで敢えて刺激的なタイトルを付け、自らの浅学非才を省みずに(って、これはいつもの事ですが)書いてみた次第です。
理解の浅い所や単純化し過ぎた点があるとは思いますが、大きく本質は外していないつもりです。
(2017年05月24日追記:与謝野馨氏が亡くなったそうです。残念でなりません。願わくば彼には、もっともっと長生きして頂いて「金融緩和と財政出動により日本経済が見事に復活するさま」を、その目に見せ付けてあげたかったです。)

2.予備知識

まず、2つほど予備知識を述べます。と言っても、それほど難しい事を書くつもりはありません。

1つめは「ありふれたものの価値は低く、希少なものの価値は高い」です。これは直感的にも理解し易いでしょう。例えば、トレーディングカードゲームなどでも、激レアなカードは価値が高い。それはまさしくレア(希少)だからです。誰でも持っているカードは価値が低いですよね。ゴールドやダイヤモンドの価値が高いのも、地球上に存在している量が少ないからです(もっとも、いくら希少であっても誰も欲しがらなければ無価値ですが、そこまで述べると長くなるので今回は割愛します)。
そして、これはお金そのものについても言えます。お金が少ししかなければお金の価値は高くなり、少しのお金で沢山のものが手に入ります(つまり、物の値段が安いという事)。これがデフレです。この時、安くなるのは物の値段だけではなく、労働の値段も安くなります。従って、賃金がなかなか上がらないという事になります。
逆に、世の中にお金が溢れていれば、お金の価値が下がり、少しの物を買うのにも沢山のお金を支払わなくてはなりません(=物の値段が高い)。また労働にも沢山のお金が支払われる様になります(=賃金が上がる)。これがインフレです。
更にこれは、円と他の通貨(ドルやユーロ)との関係についても言えます。円が少ししかなければ円の価値が(相対的に)上昇し、円高になります。逆に円がふんだんにあれば円の価値は下がり、円安となります。

2つめは「経済が停滞すると人が死ぬ、死なないまでも不幸になる」です。端的に言って、景気が悪くなると失業者が増えます。今の日本はこの状態です。仕事が無ければお金が入ってきません。お金が無ければ生きていけません。あるいは「ホームレスになれば」と無責任に言う人が居るかもしれません。しかし、ホームレスとして生きられるかどうかですら、やはり景気に左右されるのです。例えば、景気が悪くなれば企業は期限切れで廃棄される食品を減らそうとするでしょう。また職を持ち食べていられる人達も、なるべく食べ残しを減らそうとするでしょう。結果、ホームレスの人もやはり、より飢える事になるのです。この様に、経済の停滞によって不幸になる例は、枚挙に暇がありません。

2011年7月7日木曜日

京大入試問題漏出事件に関する、ありがちな誤解

(この記事は2011年3月に書いたものですが、震災の影響により公開のタイミングを逸していました。しかし本日(2011年7月7日)、本人が不起訴処分になったという報道がありましたので、この機会に公開する事にします)

もう散々話題になったので殆どの皆さんが既に御存知と思いますが、京都大学の受験生が携帯電話を股に挟んで左手で操作してYahoo!知恵袋に試験問題を投稿したという事件がありました。この事件に関しては、東京大学の玉井教授の呟きを纏めたもの、及びそれを元にした優れた解説記事があります。ですから「そちらをお読みください」で済ましても良い位ですが、まぁそれでも、私なりに「ありがちな誤解」を解く為の解説を試みてみます。

なお、以下のサブタイトルは「ありがちな誤解」そのものではなく「誤解に対する私自身の主張を端的に書き記したもの」です。

1.単なるカンニングに留まらない、試験問題漏出事件であったからこそ、警察沙汰になった。

「カンニングくらいで逮捕するなんてひどい」というのは、感情論としては理解できます。しかしそれでは問題の本質を見誤ってしまいます。大体、過去に発覚したカンニングは皆無だったのでしょうか?おそらく違うでしょう。これまでにも発覚したカンニングは存在した筈です。しかしそれらは刑事事件になっていないし勿論逮捕もされていません。感情論に走る前に、何故今回に限って事件になったのか、その点を少し考えて欲しいのです。
単なるカンニングの発覚であれば、大学の内部だけで対応できます。嫌な言い方ですが、そもそもカンニング行為そのものへの対応は、受験資格取り消し等の処分も含めて、通常の試験業務の一部であると考える事も可能です。
しかし、問題の漏出はそうではありません。試験中に問題が漏れたという事は勿論、学外へ漏出するルートの存在を意味します。これは単なるカンニングよりも遥かに大きな問題です。何故なら、そのルートの使い方によっては、試験が全く成り立たなくなる程の大混乱をもたらせる可能性があるからです(愉快犯にあまりヒントを与えたくないので具体的な手口については書きませんが)。ですから、最低限、どの様なルートだったのかを解明し、対策を立てる必要があります。
そして、その様なルートの解明には大学だけの調査能力では全然足りません。だからこそ、警察の力が必要だったのです。更に言えば、単なるカンニングとは異なる対応が必要になった為に、ただでさえ入試の採点や合否判定の為に日常よりも業務が増えているのにも関わらず、更に仕事量は増大しました。即ち、大学の通常業務は大きく妨げられたと言えます。ですから「業務妨害」に相当するのです(最終的には司法の場で決める事ですが)。
以上より「単なるカンニングに過ぎないのに逮捕された」という認識も間違っていますし「警察沙汰にする為にカンニングを業務妨害にこじつけた」という解釈も間違っています。

勿論この事は、カンニング自体の是非とは別個の問題です。

また、念の為申し上げておきますが、私は警察権力の横暴には反対ですし、今回の事件ではマスコミに個人情報をリークし過ぎだと思っています。そして、そうした問題点を追求されそうになったマスコミが批判の矛先を京大に逸らそうとしているのではないかとすら思っています。ですから、うかうかとその尻馬に乗らない様にお気を付け頂きたいという気持ちもあります。


2011年7月6日水曜日

上皮性腫瘍と非上皮性腫瘍との違い

初回公開日:2011年07月06日
最終更新日:2012年08月13日
(2012年08月13日追記:この記事の姉妹編とも呼べる「良性腫瘍と悪性腫瘍、及び、放射線と癌との関係について」を書きました。そちらも併せて御覧ください)

1.これまでのお話

先日、Twitter上で「癌と『がん』との違い」について連続で呟きました。御覧になりたい方は、_taka51さんがTogetterにまとめてくださったものがこちらにありますので御参照ください。
一応、こちらでも簡単にまとめ直しておきます。

1)腫瘍の分類は「良性vs悪性」「上皮性vs非上皮性」の2軸により4つに大別される。
2)元々「癌」という言葉は上皮性悪性腫瘍を指す言葉だった(非上皮性悪性腫瘍は「肉腫」と呼ぶ)。
3)ここ数十年の間に、上皮性・非上皮性を問わず悪性腫瘍全般を「がん」と呼ぶのが一般的になった。
4)これにより「がん」という言葉に広義と狭義の2種類の意味が含まれる様になった。
5)そこで(あくまで個人的な使い分けとしてであるが)私は、上皮性悪性腫瘍のみを指す場合には漢字で「癌」と表記し、悪性腫瘍全般を指す場合は「がん」とひらがなで表記する様にしている。この様にしておけば、一般的な用法と齟齬をきたさない形で上皮性悪性腫瘍を表現できると考えたからである。
6)ちなみに、実は上皮性悪性腫瘍を指す言葉として「がん腫(癌腫)」という用語がある。しかし、この言葉は医療関係者の間でも通りが悪く、却って混乱を生じると思うので、あまり使わない様にしている。

繰り返しますが、あくまでこれは個人的な使い分けです。

2.その後の展開

上記の一連の呟きをしてから程無く、tigayam2さんからこの様なツッコミを頂きました。このツッコミの鋭いところは2つあって、1つは「中皮」という存在を出してきたところ、そしてもう1つは「上皮か中皮か区別できないとき」という状況を指定してこられた点です。
とは言え、これだけでは何の事だか解らない方もいらっしゃるでしょうから、折角ですので、もう少し詳しく述べてみます。

3.中皮とは何か

中皮とは簡単に言うと、胸膜や腹膜の表面を敷き詰めている細胞です。胸膜は胸部臓器(主に心臓と肺)を包んでいる膜であり、腹膜とは腹部臓器の一部(胃・小腸・大腸・肝臓など)を包んでいる膜です。これらの膜の表面に中皮細胞が敷き詰められています。
ここで「上皮とは身体の表面を敷き詰めている細胞である」という点を思い出してみましょう(御存じ無い方は、冒頭にリンクしたTogetterの記載を御覧ください)。「表面を覆う」という役割が共通していますので、上皮と中皮とは非常に良く似た性質を持っています。

この中皮から発生する腫瘍が「中皮腫」であり、悪性の場合は「悪性中皮腫」と呼ばれます。中皮は上皮ではないので、一応は「非上皮性腫瘍」という事になりますが、上記の如く上皮と非常に良く似た性質を持っていますので、非上皮性と言い切るのにも抵抗があります。

つまり、中皮とは生体の中でもユニークな存在であるが故に、上皮性とも非上皮性とも言い難いと考えています。従って悪性中皮腫は「癌」とも「肉腫」とも言い難く、あくまで「悪性中皮腫」と呼ぶのが最も適当であるという考えを持っています。
実際、中皮腫には幾つかのバリエーションがあります。上皮の性格を強く持つ「上皮型中皮腫」、非上皮の性質が前面に出た「肉腫型中皮腫」、そしてこれら双方の性質を併せ持つ「二相型中皮腫」などがあります。
勿論、いずれも悪性の場合には広義の意味での「がん(悪性腫瘍全般)」に含まれる訳ですが、それにしても、なかなかややこしい存在である事には違いありません。

4.更にややこしい話

続いて「上皮か中皮か区別できない場合」について述べます。中皮腫は腹膜よりも胸膜に発生する事の方が多いです(アスベストがリスク因子になります)。胸膜から発生した上皮型中皮腫が肺に進展した場合と、肺から発生した肺癌が胸膜に進展した場合とでは、見分けるのが難しい場合が出てきます。
組織型(細胞の配列や顔付き、分化傾向など)や、細胞が作っている物質(細胞骨格成分や粘液など)を調べる事により区別できる場合が多いですが、それでも見分けが付き難い場合も残ります。
大抵の場合は見分けが付くので、上記の様な例は決して多くはありません。それでも、そうした症例に遭遇した際には「肺癌か中皮腫か区別がつかない」と言うしかない事も起こり得ます。

この様な時に「解らない」と言うのは勇気がいります。実質的に違いが無いのなら、自信たっぷりに言い切ってしまった方が、言う方も言われた方も楽になるだろうな、とか思ったり。でも私は「それって、逆に不誠実な態度なのではないか」という気持ちの方が強いのです。

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2011年5月25日水曜日

P01-01: ニセ科学の(一応の)定義

初回公開日:2011年5月25日
最終更新日:2011年5月28日

1.ニセ科学とは

ニセ科学の定義に関しては、ニセ科学批判Wikiの中にも書きましたので、そちらを見て頂いても良いですし、そのWikiを参考に書かれたはてなキーワードを参照頂くのも良いと思います。でもまあ、折角ですから、ここではもう少し噛み砕いた説明を試みてみましょう。

ニセ科学とは「科学ではないのに科学を装っているもの」です。つまり「科学ではないもの」の中で、特に「科学を装っているもの」をニセ科学と呼ぶのです。
これはタイトルにも書いた様に「一応の」定義です。ですから、ニセ科学と呼ばれているものを違う名前で呼んでも構いません。別に「ニセ科学」という言い方にこだわる必要はなく、疑似科学でも似非科学でもウソ科学でも、好きな様に呼べば良いのです(そう言えば「コミックサイエンス」なんてのもありましたねぇ(遠い目))。
但し、ここで述べています通り「ニセ科学」という用語に関しては、既にある程度、意味内容の検討が為されています。ですから、敢えて別の用語をお使いになるのであれば「自分がその用語を選択した動機や、その用語に込めようとした意味」などについても、多少は意識して頂きければ、と思っています。
もし、自分が使っている用語の意味内容について全く無頓着になってしまうならば、その場合には、もはやまともな議論は望めなくなってしまうでしょう。
そう、例えば「メルトダウン」という言葉の様に。

更に、この定義を使うにあたっては、幾つかの注意点がありますので、以下の2.と3.で述べます。

2.ニセ科学の定義は実態に合わせて決められた

まず、この定義は「先に定義を決めておいて、その定義に当て嵌まるものをニセ科学と呼んで批判している」のではありません。そうではなくて「これはどう考えてもニセ科学だろう」という個別の事例を幾つも集めてきて見比べてみたら、共通点が見い出せた。その共通点を端的に示したのが、上記の定義だという訳です。
その意味では、これは定義と言うよりはむしろ「ニセ科学という言葉を説明したものである」と考えた方が解り易いかもしれません。

3.ニセ科学を定義する事の難しさ

次に、定義自体の曖昧性があります。これは更に3つに分けられます。

1つ目は「科学である/ない」という判定は必ずしも容易ではない点です。この難しさに関しては、既にS01-01の記事で触れています。そしてその中で「科学と非科学の境界が明確でなくても、明らかに非科学であるものを決める事は出来る」という意味の事を書きました。この点に関しては、後ほど具体例を挙げます。

2つ目は「装う」という言葉の難しさです。どういう条件を満たせば「装っている」とみなせるのでしょうか。ここで私は、条件を厳しめに設定したいと思います。何故なら、私がニセ科学を批判する主要な目的の中に「ニセ科学の蔓延による社会への悪影響を少しでも減らしたい」というものがあるからです。
具体的には「科学を装う意志があるとみなせる」あるいは「科学だと誤認してしまう人が無視出来ない数で存在する」の、いずれか片方を満たした時点で「科学を装っている」と判断します。

3つ目は、1つ目と2つ目の複合型です。「科学である/ない」は、真っ白から真っ黒まで連続したグラデーションを形成しています。その場合に「科学ではないのに科学を装っている」というのは、典型的には「真っ黒なものを真っ白と言い張る」事ですが、必ずしもそれだけではないのです。
「真っ黒なものをグレーと言い張る事」や「グレーなものを真っ白と言い張る事」もニセ科学に含まれると考えます。実際には真っ白と真っ黒の間は連続的に無段階に変化しているので「明らかに濃いグレーを明らかに薄いグレーと言い張る」など、無数のバリエーションがあり得ます。
という訳で、冒頭に述べたニセ科学の定義は「実態と主張(もしくは見掛け)との間が、明らかに掛け離れているもの」と言い替える事も可能だと考えます(もしかしたらこちらの定義の方がより正確かもしれませんが、逆に表現としては解り難くなっているきらいもありますね)。
そして、いずれの定義を使った場合でも、ニセ科学かどうかの判定に際しては、個々の具体的な例に応じて判断する必要があります。

2011年5月11日水曜日

P01-05: ニセ科学に嵌る心理~私達はなぜ放射線を恐れるのか?~

初回公開日:2011年5月11日
最終更新日:2011年8月24日
(4.と5.を加筆修正しました)

東日本大震災と福島第一原発の事故から(この記事の初回公開時点で)丁度2ヵ月が経過しました。しかし、今もって、これらの話題を聞かない日は1日もありません。
現在も、多くの人々が放射線に対する不安と恐怖に苛まれていると感じます。
この記事は、直接「安全だ」「危険だ」という議論をするものではありません。しかし「ニセ科学に嵌る心理」を分析する事が、皆さんの感じている放射線への不安に対して、少しでも役に立つかもしれません。そういう気持ちも込めて書きました。

最初に、結論を述べます。
私は「ニセ科学に嵌る心理は、多かれ少なかれ誰でも持っているものであり、そしてそれは、放射線を恐れる心理とも通じるものがある」と考えています。
では、その様に考えるに至った思考の道筋を、以下に記してみます。

1.恐怖と不安の違い

まず考えてみたいのは「恐怖」と「不安」の違いについてです。
皆さんは、この2つがどの様に違うと思いますか?
それとも、そんなのは、考えた事も無いでしょうか?

一言で言うと、対象が明確である場合を「恐怖」と呼び、対象が不明確である場合は「不安」と呼びます。つまり「不安とは、対象の無い恐怖である」と言えます。
もう少し詳しく述べるならば、恐怖とは、現実に存在し、既に確定している脅威に対する感情であり、不安とは、未確定もしくは未知の脅威に対する感情であると言えます。
まず、この違いを良く覚えておいて下さい。

2.恐怖と不安、どちらが対応し易いか

次に、この2つのうち、どちらがより対処し易いかを考えてみましょう。
異論はあるかもしれませんが、私見では明らかに「恐怖」の方が対応が楽であり、不安の方が対応が難しいと考えています。その理由は、まさに上述した「対象が明確であるか不明確であるか」という違いによるものです。つまり「対象が明確であるならば対応手段もとり易いけれど、対象が不明確だと、どうやって対応すれば良いのか解り難い」という事です。


2011年4月1日金曜日

ニセ科学規制法

初回更新日:2011年4月1日
最終更新日:2011年4月1日

本日4月1日、衆議院本会議に於いて「ニセ科学規制法案」が可決されました。同案は直ちに参議院に送られ、参議院でも可決成立する見通しです。
この法案はニセ科学の言説を規制するものです。ニセ科学の言説など全面的に禁止すべきだという強硬意見もかなり根強くありましたが、最終的には言論の自由との兼ね合いにより、一定の規制の枠を嵌める事で決着したものです。
法案の内容は以下の通りです。

1)ニセ科学の言説を述べる場合には、語尾に必ず以下のいずれかを付ける事。
 「だっちゃ(活用形も可)」
 「ぴょ~ん」
 「ニンニン」
 「ゲソ」
2)上記に違反した場合には罰則規定あり(後述)。

法案自体はまだ成立していませんが、巷のニセ科学提唱者達は法律の施行後に備え、早くも
「ホメオパシーは万病に効くっちゃよ!」
「血液型であの人の性格が解るゲソ」
などの言い方に慣れようと必死になっており、ニセ科学批判クラスタの生暖かい視線と半笑いを誘っています。
一方で「この調子では、むしろライトユーザーの取り込みが活発になってしまう」という危惧を示すニセ科学批判者も現れ、政府与党は難しい対応を迫られています。

最後に、罰則規定について解説しておきます。
上記の規制に違反した場合には、3ヶ月間の強制労働となります。現時点で強制労働の候補地として挙がっているのは「大阪大学サイババメディアセンター」と「ニャトロム団本部」の2つであり、希望によりどちらかを選択できる予定です。
大阪大学サイババメディアセンターに於いては、教授のロングヘアーに一本ずつパーマを掛け、少しずつサイババの髪形に似せていくという義務が課せられます。
ニャトロム団本部では黒マスクの戦闘員として、赤や青や黒などの衣装を用意して各ニャトロム(一人かもしれませんし複数かもしれません)のお着替えを手伝うという簡単なお仕事です。但し、もしもうっかりしてニャトロムの素顔を見てしまったら、二度と退団する事は叶いません。

さて、あなたなら、どちらを選びますか?

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2011年3月29日火曜日

P03-02: ホメオパシーについて

初回公開日:2011年3月29日
最終更新日:2011年3月29日



ホメオパシーは、2010年に最も話題になったニセ科学と言えます。そこで、ニセ科学批判の各論としてホメオパシーを取り上げてみましょう。


1.ホメオパシーとは何か


ホメオパシーとは、今から200年ほど前に、ドイツ人医師サムエル・ハーネマンにより提唱された治療法です。ハーネマンは、自らがマラリアの治療薬であるキニーネを服用したところ、マラリアに似た症状を起こしたという体験をきっかけとして、ホメオパシーの理論を考え出しました。即ち、


1)マラリアの治療薬であるキニーネを飲み過ぎると、マラリアの様な症状が起きる。
2)従って、キニーネはマラリアの原因と考えられる。
3)つまり、病気に対する薬を多量に飲む事は、その病気の原因になる。
4)これを逆に考えると、病気の原因を少しだけ飲む事は、その病気に対する薬となる。
5)薬が多すぎると病気になる。即ち、薬の量は、減らせば減らすほど効果が強くなるはず。


彼はこの様に考え、その考えに基づいて様々な病気に対して、その原因だと考えられていた物質を極端に薄めたものを作りました。それが各種の「レメディ」であり、このレメディによる治療の体系がホメオパシーなのです。
ちなみにホメオパシーは日本語で「同種療法」と訳されます。これは要するに「病気の原因と治療薬とは同種の物質である」という考え方が基本にある、という意味です。


2.ホメオパシー「理論」の誤り


でも、ちょっと待ってください。上記1)~5)の考え方は、確かに論理的な様でもありますが、途中に幾つもの飛躍があります。

2011年3月17日木曜日

P03-01: 震災に便乗するニセ科学



P03-01: 震災に便乗するニセ科学

初回公開日:2011年03月17日
最終更新日:2011年03月31日

2011年3月11日に発生した大震災は史上稀に見る規模であり、その後も余震や新たな地震が頻発しており、被害は極めて甚大です。
被災された方々に心より御見舞いを申し上げます。
また、救援・復旧・対応をされている方々に感謝致します。

さて、私はこちらの記事で「震災をネタにアコギな金儲けを図る人とか、自分の主義主張や思想を広めようとする人」について触れましたが、その具体的な例が「震災に乗じてニセ科学を広める人達」です。災害に便乗するというのは心情的にも許せませんし、実害が生じる可能性も通常より高くなります。「地震兵器」の如き明らかなデタラメは放置しておくとしても、ここでは幾つか個別の例を挙げておきます。

なお、今回は煩雑さを避ける為に、各ニセ科学について個別の解説はしません。本当は先にそちらを記事にしておくべきだったのでしょうが、お察しの通り、全く間に合っていませんorz
とりあえず、参考になる記事に幾つかリンクを張っておきます。

ニセ科学への批判行為全般に関しては、私も編集に参加しているこちらのWikiをご覧ください。
水からの伝言に関しては、Skeptic's Wikiの中にあるこちらのページ、及びそこからリンクされている田崎先生のページがよくまとまっています。
ホメオパシーに関しても、Skeptic's Wikiの中のこちらのページ、及びそこからの各リンクが参考になると思います。またKumicitさんの記事(字幕はお手製です)やkumikokataseさんの記事もお勧めです。また、拙ブログ内の解説記事Web論座問題に関する記事もご覧頂ければ幸いです。

1)マクロビオティック

味噌や醤油、昆布や海草が放射線の対策になる」というデマが飛び交っています。で、どうもこれはマクロビオティック系の人が広めているらしいです(「とらねこ日誌」の記事を御参照ください)。
無論、味噌や醤油は適切に摂取すれば、おいしくて栄養価に優れた食品ですが、放射線の対策にはなりません。勿論、納豆も放射線の対策にはなりません。デマです。惑わされないでください。

ちなみに私は納豆大好きなので、買い占められると真剣に腹が立ちます。あとバナナも。
余談ですが買い溜めはなるべく止めましょう。不安な気持ちも解りますが、買い溜めは、それ自体が物資の不足をもたらしますし、そればかりでなく物流も妨げますので、復興の障害になります(物流の現場にいらっしゃる方の御意見も参考になさってください)。

2011年3月15日火曜日

震災への御見舞い

初回公開日:2011年3月15日
最終更新日:2011年3月24日

2011年3月11日~12日にかけて、東北地方沖太平洋及び新潟県中越地方で大きな地震が幾つも発生し、東日本の極めて広い範囲で多くの方々が被災されました。
現在でも余震が続いています。まさに今、これを書いている最中にも、福島沖で余震が起き、更にその直後、静岡で新たに大きな地震が発生しました。

被災された方々に心より御見舞い申し上げます。
また、災害救助・復旧・対応にあたっておられる全ての方々に、深く御礼申し上げます。

被災された方々へ
震災直後も、今も、そしてこれからも、多くの人が皆さんの事を想い、行動し、あるいは将来の行動に備えて準備しています。
今回の事で、かけがえの無いものを失われた方も多いと思います。
けれど、取り戻せる日常も、必ずあります。
悲しければ泣いても良いのです。
決して無理はしないでください。
でも、希望を完全に失う事だけは、しないでくださいね。

対応にあたっておられる方々へ
皆さんは、我々の誇りです。
勿論、あなた方はスーパーマンでも何でもない、普通の人だという事は知っています。
でも、だからこそ、あなたは私達のヒーローなのです。
くれぐれも、お体には気をつけてください。

2011年2月9日水曜日

Web論座がホメオパシーについて事実誤認の記事を載せっ放しで対応が遅れまくった件(2011/3/31現在)

(タイトル変更・本文追記しました)
これは、もう「Web論座問題」と呼んでも良いレベルですね。

何の事か解らない方は、とりあえずこちらのまとめを関連リンクと共に読んで頂ければ、大体の流れは掴めると思います。ただ、それすら面倒臭いという方もいらっしゃるかもしれませんので、そういうワガママさんの為に、今北産業(本当は10行以上あるけれど)的に、以下にまとめました。

1.Web論座にスイスでのホメオパシー事情を伝える記事が載った(執筆者は外部の人)
2.その記事中に「ホメオパシーがADHDに効果的だという実験結果がある」という記載がある
3.その他にも「スイスでは牛にもホメオパシーが使われている」「筆者自身が効果を実感している」という記載もある
4.上記2.の記載は明らかに事実誤認である。詳しくはこちらの記事を読んで頂くとして、結論から言えば、ホメオパシーがADHDに効くとは言えない。
5.上記3.の点についても異論は多いが、少なくともADHDの件に関しては明らかに事実とは異なっているので、何人もの人がWeb論座に対応を求めた。
6.但し、対応といっても、必ずしも元記事の削除とか謝罪とかを求めているのではない(ここ重要。Togetterのコメント欄にも、ここの部分が解ってない為にトンチンカンな事を言っている人がいる)。こっそり削除して無かった事にされるのも嫌だし。あくまで「記事中に事実と異なる部分がある」という情報を提供して欲しいという事。具体的には、欄外に編集部の注釈を入れるとか、カウンター情報へのリンクを貼ったりする、といった対応を求めている。
7.その後、Web論座には、カウンター情報とも言える久保田裕氏の記事と、菊池誠氏の記事が載った。
8.これは推測だが、どうもWeb論座的には、7.の記事を載せた事で対応が済んだと思ってるっぽい。その後いくら突付いても応答が無く、先日ちょっと搦め手まで使ってようやく引き出した反応が、上記のToggetter(つまり、事実上のゼロ回答)であった(2011/2/9時点)。

2011年1月29日土曜日

S03-01: 科学者は権威主義者なの?

初回公開日:2011年01月29日
最終更新日:2011年02月01日


トンデモさんの多くは、科学者が自説を認めてくれない事について不満を持っています。そうした不満は、例えば以下の様な言葉で表現されます。
「科学者なんて頭の固い連中ばっかりで、新しい事を認める度量なんて無いんだ」
「あの世界では、誰か偉い学者がこうだと言えば、それが絶対なんだよ」
「あいつらは自分達の立場を守るのに精一杯で、それを脅かす様な新説は最初から認めないんだ」


勿論、こうした非難は悉く的外れです。しかし、たとえトンデモさんでなくても、こうした意見にも一理あると思ってしまう人も、おそらく居るでしょう。もしかするとそういう人は、科学者達に対して権威主義の臭いを嗅ぎ取っているのかもしれません。確かに、科学者ではない普通の人からすれば、科学者って「良く解らない難しい事を言い、素人からの反論を許さない」という雰囲気を醸し出している様に見えるのかもしれません。
でも、果たして本当に科学者は権威主義者なのでしょうか。


どんな集団でもそうですが、ベテランと新人、達人とアマチュアが混在している集団であれば、自然と発言の重みに差が出ます。科学者集団でも同じ事です。その意味で、権威主義の要素がゼロかと言えば、そんな事はありません。
しかし、敢えて比較するならば、科学者集団の中ではむしろ権威主義的な色彩は弱いと推測されます。そう判断する理由は、科学の性質そのものにあります。


以前の記事(S01-04)で書いた様に、科学における「正しさ」とは、証拠の客観性と再現性に強く依存しています。つまり、誰が見ても(偏見や予断が無ければ)、何度やり直したとしても(条件が同じならば)、同じ結果が得られるというのが大きな特徴です。別に、偉い人が実験したから結果がちゃんと出る、という様なものではありません。
もっとも、現実にはプロとアマチュアで実験結果に大きな差が出る事は珍しくありませんが、殆どの場合、それは技術と経験(そして実験態度)の差によるものだと看做して良いでしょう。


この様に考えてくると、科学の方法論と権威主義とは極めて相性が悪い、むしろお互いに相容れないものであるとすら言えます。勿論、科学者も人間ですから、偉くなれば威張りたい部分もあるでしょうし、生意気な相手に対しては不快にもなるでしょう。増してや、あからさまにトンデモな説を開陳する人は門前払いをしたくもなります。
しかし、若造だろうがアマチュアだろうが、きちんと客観性と再現性のある証拠を公に提示出来たなら、それを無視する事は出来ません。何故なら、それこそが科学の方法だからです。ただ、歴史的に見れば確かに「政治的な圧力により科学的事実が捻じ曲げられる」という事もありました。しかしそれは科学そのものの問題ではなく「政治により事実が曲げられる」という点こそが問題なのだと考えられます。ですから科学そのものとしては、有力な証拠を門前払いする様な事はありません。
その一方で、トンデモさんのトンデモたる所以は、薄弱な証拠から極めて強い主張を行なう点にあります。言い換えれば、主張の強さに見合う根拠を示せていない。その事に気付かず、自分の持つ証拠の強さを極端に過大評価してしまうのがトンデモさんの特徴の一つです。


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ちょっとテーマからズレますが、この「証拠の強さを過大評価する」という点について、もう少し詳しく述べましょう。これはトンデモさんに限らず、誰でもつい陥りがちな落とし穴なのですが「個人的体験の重視」と「確率的な考え方の軽視」が大きな要素であると考えます。


まず「個人的な体験の重視」とは例えば「この目で見た」とか「自ら体験した」という言葉で表されるもので、こうした言い回しには強い説得力があります。何故なら、我々の判断の大部分は経験に頼っているからです。しかし現実には「この目で見た」なんてのは、どれほど当てにならない事か。それは、例えば錯視(錯覚)とか手品のトリックとかを少し調べてみれば、すぐに解る事です。自らの「認知の歪み」(の一つである「過度の一般化」)を克服するのは、多くの人にとって難しい事でしょう。
そこで「知識と経験」という言葉がある様に、理想的には直接的な体験で得た経験と、言わばバーチャルな手段により入手した知識とのバランスが取れているのが望ましいでしょう。そうする事によって、体験だけに頼った場合に判断が歪みがちなのを矯正する事が可能になるからです。
逆に言えば、どうしても我々は個人的な経験を重視する傾向があり、かつ、経験だけでは判断に偏りが出る。だからこそ「知識と経験」という言い方でバランスを取る事が奨励されてきたとも考えられます。
もう少し言うと、知識と経験との間を埋めるのが想像力、つまりイマジネーションです。知識は頭の中にしかないとしても、それを現実に応用したらどうなるか。その事をリアルに想像できるのであれば、単なる知識も経験に準ずるものとして、自らの骨肉と化していくのです。


次に「確率的な考え方の軽視」とは、要するに、低い確率の事が起こった場合に「偶然ではあり得ない」と解釈する考え方の事です。こうした考え方の欠点としては「心理的なバイアス」と「確率計算の誤り」が挙げられます。
例えば車を運転していると「急いでいる時に限って信号に引っ掛かる」という感想を持つ人も多いと思います。しかしこれは「急いでいない時は赤信号で止められても殆ど意識しないで忘れてしまう」と考えれば説明が付きます。これが心理的なバイアスの一種です。また確率の大きさにしても「同じクラス30人の中に誕生日が同じ人が居る確率」とか「健康診断を行なった時に、1つ以上の項目で異常値が出る確率」とかは、おそらく多くの人が直感で判断するよりも大きな値を示します。


更に言えば、こうした考え方の背景にあってこれらを強化しているのが「因果論的な思考の重視」だと考えています。
因果とは本来仏教用語ですが、ここで言う「因果論的な思考」とは、むしろ主に自己啓発系で良く言われる様な「全ての事柄には原因がある」的な考え方の事です。これは偶然を否定する考えでもありますし、個人的経験を含むあらゆる事例にもっともらしい理由付けを行なう考えでもあります。ですから、上記の2つの考え方を強化する方向に働き易いのです。


「世の中に偶然などは無い。全ては必然である」とか「あらゆる物事には理由がある。無意味な出来事など無い」というのは、一見すると非常に耳当たりの良い言葉です。
しかしよく考えてみると、これは実に残酷な思想でもあります。
何故なら、事故や天災にも意味がある事になってしまうからです。「神様は乗り越えられない試練はお与えにならない」という言葉があります。これは、現に苦しんでいる人を励ますのには良い言い回しですが、もし試練を乗り越えられなかった場合には、徹底的に本人が悪い事になってしまいます。救いが無いのです。
おそらく宗教的な立場からすれば「現世で試練を乗り越えられなくても来世(あるいは煉獄など)で修行しなおす」という形での救済が用意されている事でしょう。しかし、そうした不可知なものを導入した時点で、因果関係はかなり曖昧(つまり検証不可能)になってしまいます。逆に言えば、因果論的な考え方は、不可知なものを導入しない限り破綻してしまう、とも言えます。


ですから、現実世界で生じている事柄を説明する際に因果論的な考えを適用するのには慎重であるべきです。それによって証拠の強さが増す訳では無いのですから。
勿論「人生の指針」としての使い方まで否定するものではありません。
また、おそらく誤解する人は少ないとは思いますが「因果論的な思考」と「因果関係の検証」とでは、同じ「因果」という言葉が使われていますが、中身は全く異なるものだという点にも注意が必要です。


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2011年1月11日火曜日

青いプリンの食し方(なるべく食当たりを起こさない為に)

2011年12月25日追記:こちらの記事に、早川由紀夫氏に関しての私見を述べております。そちらも是非御覧ください。

注)この記事はネタであり、フィクションです。しかし、これをお読みの方が現在抱えている問題に僅かでも役に立つ可能性があるかもしれないと思って書いている部分もあります。

ネットには様々な人がいます。そしてそれぞれの人が言わば好き勝手に情報を発信しています。それは玉石混交と言うもおこがましい程のカオス状態でもあります。ですから「まさかこんな馬鹿げた事を言う人が居るなんて!」と思う様な状況に出会う事もまた、稀ならず起こります。

ここで、以下の様な特徴を持つ人物の存在を仮定してみましょう(しつこい様ですが、これはフィクションです。現実に似た人が居ても、ただの偶然でしょう)。
1)社会的地位は比較的高い。
2)その場その場では一応整合性のある事を言うが、しばらく観察していると以前言った事と辻褄が合わなくなってくる。
3)ジャイアニズム的なダブルスタンダードを持つ。即ち、他人に対する要求は高く、自分に対する要求は低い。
4)自説を開陳するのに熱心だが、基本的に勉強不足である。例えば、分野外の専門用語の意味を知らず、字面から連想しただけの俺様解釈を振り回す。
5)上述したダブスタや勉強不足を指摘されると、屁理屈で糊塗しようとする。それに失敗すると、逆切れするか、拗ねる。
6)自分の発言が他人を傷付ける事に対しては鈍感であるが、自分が傷付く事には過敏である。
7)自分を表すアイコンが漫画チックであるが、いわゆる二次元キャラとは異なる。また機嫌によってアイコンの表情も変える。

さて、わざわざこんな人物を仮定してみたのは「どうしてこの人はこんななのか」を考えてみたいからです。
一言で結論を言うなら、こうです。
坊やだからさ!
もう少し詳しく言うなら「知能は成長したけれども、人格形成が未発達のままである、言わばワガママな幼児」だという事です。勿論これは推測であり、それを裏付ける決定的な証拠がある訳ではありません。しかし一方で、この様に推測すれば、上記の各項目を上手く説明できるのも確かです。

幼い子供というのは、基本的に「構ってちゃん」です。即ち、自分が世界の中心であり、いつも周囲からチヤホヤされていないと気が済まない。ただ現実には、常にチヤホヤされている訳では無い。そういう時に子供はどうするかというと、何とかして注目を引こうとする。例えば奇声を上げたり暴れたりして周囲の関心を集めようとします。それでも相手にして貰えないと行為はエスカレートし、わざと怒られる様な悪い事をしてでも構って貰おうとする。
こうしたメンタリティを持った人であれば、上記の様な特徴を有していたとしても、さほど不自然ではありません。
以下、個別に解説していきます。

1)社会的地位の高さについてですが、これはちょっとこじつけ気味になるのをご容赦ください(何しろネタですから)。勉強の出来る子であれば「良い成績を取る」というのはチヤホヤされる為に最も効果的な手段の一つです。家庭にもよるでしょうが、勉強をして良い成績を修めていれば、概ね幸せな子供時代を送れるでしょう。そのまま上手くいけば高学歴を身に付ける事が出来、社会的地位も高くなろうというものです。
2)論理的不整合についてです。自分がチヤホヤされる事が最優先ですから、その場その場では尤もらしい事を言わねばなりません。馬鹿にされるのは嫌なのです。でも長い眼で見ると辻褄が合わなくなります。所詮、注目を浴びる為の発言だからです。
3)ダブルスタンダードについては、比較的特徴的であると言えましょう。即ち「みんながダメでも、ボクだけは良いんだもん!」というのは、かなりあからさまな幼児性の発露です。
4)目的が周囲に構って貰う事ですから、勉強を教えて貰えるのは、却って嬉しい事なのかもしれません。最初に勉強不足を指摘された時はちょっと恥ずかしい思いをしたかもしれませんが、開き直ってしまえば、これは逆に構って貰えるチャンスでもあります。だから「自分で勉強しなさい」と言われるのは嫌いなのです。あくまで優しく教えて欲しいボクちゃんなのです。
5)という訳で、指摘を受けた時の態度も決まってきます。まずは屁理屈により自己の正当化を図る。そのうえで、構ってくれそうな人が相手ならば、甘えてみせるか、拗ねてみせる(子供ですから)。でも、構ってくれなさそうな人に対しては、ソッポを向くのです。
6)これはもう、あまり説明の必要は無いでしょう。子供というのはある意味残酷であり、自分の言動により他人が傷付く可能性にはなかなか思い至りません。想像力が不足しているとも言えます。その一方で自分が世界の中心ですから、自分が傷付く事には我慢出来ない。
7)漫画的に自らを表現するのも、幼児性の発露です。しかもそこに、その時点での自らの感情を反映させるという事は、言わば「自分の御機嫌を取って欲しい」という要求の現われと解釈する事も可能です。

ただ、単なる子供と違うのは、上記に書いた様な事を前面に押し出し過ぎると却って相手にされなくなる、というのを知っている点です。ですからそれを隠す為に尤もらしい事を色々と述べますが、それはしばしば上記の「自分にとってだけ都合の良い主張」を偽装したものに他なりません。だからこそ、発言に矛盾が出てくるのです。
具体例で見てみましょう。
「自分だけは傷付きたくない」というのをそのまま主張しても、相手にして貰えないという程度の事は流石に知っています。ですので、これを一般化する事により、反論を封じて自分の意見を通そうとします。つまり「人を傷付けるのは良くない」と主張する訳です。
しかしそのココロは上述の如く「自分だけは傷付きたくない」ですから、一方で他人を傷付ける様な言動を平気で垂れ流します。この様にしてダブルスタンダードが形成されるのです。

ところで、上記の人物像は架空のものですが、これらの特徴の幾つかを持った人に遭遇する事は(特にネット世界の中では)それほど稀な事ではありません。
では、もし、実際にこういう人が居た場合に、どの様に対処すべきでしょうか。
これは、対処の目的と方法とに分けて考えると解り易いでしょう。

まず目的ですが、大きく3つに分けられます。
1)本人が自らの考えと行動を改める事。
これは最も直接的な目的ですが、最も達成が困難な目的でもあります。他人の思考や行動様式を変えるのは、しばしば非常に困難です。
2)本人の意見を見た第三者に悪影響が及ばない様にする事。
上記1)に比べるとやや控え目な目的ですが、決して重要性が低い訳ではありません。(自分から見て)おかしな意見が世の中に広まるのを防ごうと思うのも、大切でしょうから。
3)自分自身の精神衛生を悪化させない様に保つ事。
上記1)や2)に比べると利己的に思える目的です。しかし考え様によっては、最も大切な目的でもあります。何故ならこの目的は、上記1)2)を目指す為には必要な条件であるとも言えるからです。自分自身がしんどくなってしまっては、何も出来なくなってしまいかねません。

次に、これらの目的を達成する為の方法もまた、幾つかに分けられます(但し、1対1の対応ではありません)。
a)論理的批判
本人の意見に含まれている、論理構造の誤り・事実誤認・一貫性の無さ、等を見つけ出し、それを指摘します。冷静で理性的な議論が期待できます。一方で、感情的になった相手や第三者には殆ど効果が無いという欠点があります。ですから、上記の如き特徴を有する本人自身に対する効果は、実はさほど期待できません。
b)倫理的批判
相手の倫理観に訴える批判方法です。根本を辿っていくと上記a)との境界が曖昧になってきますが、倫理的な部分を前面に押し出す場合は、これに含まれるでしょう。a)に比べると加減が難しくはありますが、それでもこうした批判が必要な場面もあるでしょう。

これらの批判はいずれもそれなりに有効な方法ではありますが、必ずしも目的を達成出来るとは限りません。特に1)の目的が達成出来ない場合、その事が徒労感を生み、その為に3)の目的も達成出来なくなってしまう場合があります。この状況を何とかしたい。
私がその場合に有効だと考えている対処法は、
c)相手を理解する事
です。
但し、理解する事は、同意する事でも迎合する事でもありません。そうではなくて、1)の目的が達成出来なかった原因を探る為に行なうのです。これが上手くいけば、自分のやり方に改善の余地があるのか、あるいは1)の目的が達成出来なかったのは仕方が無かったのか、判断できるでしょう。
そして、こうした考察をする事によって、少なくとも3)の目的は最低限達成されると期待出来ます。
もっと言えば、3)の目的のみを達成する為であれば、真に相手を理解する必要すら無く、単に自分自身が納得出来る様に「理解した」と思い込めれば、それで良い事になります。非常に後ろ向きな意見の様に思われるかもしれませんが、3)の目的を1)や2)と切り離して考えるのであれば、私はこうした対処法も場合によっては「アリ」だと考えます(勿論使い過ぎには注意すべきです)。

という訳で、本記事はネタではありますが、ネット上の発言により心穏やかではいられなくなった方々に対する一服の清涼剤にでもなれば、と思って書いたものでもあります。

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