コミケを風疹から守り隊

2010年11月18日木曜日

掛け算の順序論争について

1.これまでの展開と私の見解

「掛け算の順序論争」というものがある様だ。どうやら、かなり以前(1970年台頃)から繰り返し出ている話題らしい。
先週末くらいにTwitterでやり取りしている方々がいらしたと思ったら、早速幾つかとぅぎゃったになっていた(例えばこれとか)。色々拝見した結果、この件に対する現時点での私の考えは、以下の通り。

1)順序にこだわるのはナンセンス。
2)「掛ける数」と「掛けられる数」との違いを理解させるべき、という意見には一理ある。
3)しかし「掛ける数と掛けられる数との違いに関する理解」にこだわるのであれば、むしろ単位を重視すべきであり、やはり順序にこだわるのはナンセンス。
4)しつこい様だが、式の順序を「正しく」書いているかどうかで理解度は測れない。「正しい」順序で立式している子の中にも理解が不十分な子は居るだろうし「間違った」順序で立式した子の中にも理解している子は居る筈だから。

一言でまとめるのなら「順序にこだわる事によるメリットが全く見つけられない」となる。

2010年11月2日火曜日

S02-03: 「悪魔の証明」について

初回公開日:2010年11月02日
最終更新日:2010年11月02日

「立証責任について」の記事が割と好評の様なので、調子に乗って(?)今回は「悪魔の証明」について書きたいと思います。何故この2つの項目が目次で隣り合わせになっているかと言いますと、それはお互いに密接な関係があるからなのですね。それがどんな関係なのかは、以下の記事中で触れたいと思います。

さて、科学や論理の分野で良く使われている意味での「悪魔の証明」とは、一言で言えば「存在しない事を証明せよ」というものです。これを、より一般化すれば「否定の証明」という事になります。
通常の証明は、その多くが「Aである事を証明する」という形になっています。これに比べて「『Aではない事を証明する』のは著しく困難である」というのが「悪魔の証明」の意味するところです。

例を挙げるなら、おそらく多くの人にとって馴染み深いのが「アリバイ」という概念だと思います。ミステリ好きなら勿論御存知だと思いますが、アリバイは日本語では「不在証明」と言います。つまり犯行時刻に犯行現場に「居なかった事」の証明なのですね。しかしこれは悪魔の証明に相当し、直接証明するのはほぼ不可能です。そこでその代わりに「他の場所に居た事の証明」を以て「不在証明」とする訳です。
この考え方は「同一人が同時に複数の場所に存在するのは不可能である」という前提に基づいています。ですから、もし、テレポーテーション能力や電送装置の存在を前提にしたとすれば、アリバイそのものが成り立たなくなってしまいます。
かくの如く「ない事の証明」は難しいのです。

もう一つ例を挙げましょう。
「白いカラスが存在する」のを証明するとします。もし本当に白いカラスが居るのならば、それを捕まえてみせれば証明になりますね。しかし「本当は白いカラスなど存在しない」のだとしても、それをきちんと証明しようとしたら、一体どうすれば良いのでしょうか。世界中に存在する全てのカラスを捕まえて調べる必要があります。更に、調べているうちに、どこかで白いカラスが生まれているかもしれませんので、それも調べ直さなければなりません。それを調べているうちに、もしかしたらまたどこかで・・・きりがありません。
この様に「世界中のカラスを全て漏れ無く調べ尽くす事の大変さ」に比べれば、比べればですよ、白いカラスを見つける為に、たとえ密林をかきわけ断崖絶壁を登り猛獣や吸血虫の襲来にも耐えてようやく白いカラスを見付け出したとしても、その程度の苦労は、全く取るに足りない、本当に微々たるものだと断言できます。

つまり、一般的に言って「存在する事の証明」と存在しない事の証明」との間には、比較するのも馬鹿馬鹿しいほどの労力の差が存在するのです。ですから、通常は「存在しない事の証明」を求めるのは理不尽とされるのであって、アリバイの場合などはむしろ例外的です。
但し、アリバイの様に、代替的な証明方法によって事実上「存在しない事の証明」が可能になる場合もあります。その点には留意しておかなければなりません。

「悪魔の証明」問題はオカルトやニセ科学を批判する際に大きな問題となります。例えば、目の前に居る自称超能力者がインチキである事を完膚なきまでに繰り返し証明して見せても、その事は決して「超能力自体の否定の証明」にはならないのですから。
この事を悪用して、オカルトやニセ科学側が「無いとは言い切れないだろう」という風に、悪魔の証明に「逃げ込む」のは、ある意味常套手段となっている風潮があります。そういう逃げは許しませんよ、というのが、実は「立証責任」の考え方にも通じていくのですね。

「でも」と思う方もいらっしゃるかもしれません。「数学では『存在しない事の証明』なんてしょっちゅうだよ?」と思われるかもしれません。
ごもっともです。
ではここで、数学における「存在しない事の証明」と「悪魔の証明」とでは、一体何が違うのかを考えてみましょう。数学における証明とは、与えられた条件の中で考えられる「全ての可能性」について検討します。例えば無限に存在する自然数について証明する場合でも「数学的帰納法」という巧妙な方法を用いる事によって、全ての自然数について成り立つ事を証明できます。
数学には、この「考えられる全ての可能性について検証できる」という特徴があるからこそ「存在しない事の証明」が可能になるのです。現実問題として世界中のカラスを捕まえるのは不可能ですが、数学の世界では相手が無限に存在していても、その全てを「捕まえる」事が可能であるのです。
但し、数学の世界でも「捕まえるのが可能でない」場合も沢山あります。その場合には、たとえ数学といえども「証明できない」となるのですね。要するに「考えられる全ての場合において検証し得た時に初めて『否定の証明』が可能となる」という点に関しては、数学であろうと無かろうと、結局は同じ事なのです。
以上より「それは悪魔の証明である」という指摘(批判)に対して、数学の話を持ち出して反論するのは、的外れだと言えるのです。

もう一つ別の話をしましょう。
「ホメオパシーが効かない事は科学的に証明されている」「血液型と性格は関係ない事が科学的に証明されている」という言い方はおかしいのではないか、それは悪魔の証明をしている事になるのではないか、という意見に対してです。
確かにそうした意見にも一理あります。「ホメオパシーには全く効果は無い」「血液型と性格との間には全く何の関係も無い」という事を証明するのは、不可能と言って良いほど困難です。
だからと言って、何も言えないという訳ではありません。「全く無い」という事は言えなくても「非常に少ない」ですとか「実用上は無いと言って差し支えない」とかのレベルでの証明なら可能なのですから。血液型性格判断やホメオパシーの効果の如きは、そうしたレベルに於いて「無い」と証明されているのです。これは「程度問題」の話です。
某血液型の人などは、この程度問題を絶対に認めようとしません。それも当然で、彼の主張全体が「無いとは言い切れないだろう」という点に依存していますので、何が何でも認める訳にはいかないのでしょう。

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